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愛されるために生まれたあなたへ・・・。私たちは、栃木県小山市にあるプロテスタントのキリスト教会です。

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「『比較』を乗り越えて」 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 誰かと比較しないでは生きられない私たちですが、聖書の中には悲しい比較をした人が記録されています。
 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」(聖書/ルカ18:10-13)
 多くの人が思う事かもしれません。「あの人のようでなくて本当に良かった」。こうして自分は少し上にいると確認するのです。
 パリサイ人は「自分は正しい」と意識し、取税人は「自分は罪人だ」と認めていました。周囲の人たちも同じ見方をしていた可能性がありますが、イエス様の評価は人々のものとは違っていました。
 「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:14)
 アクシデントばかり続く人を見て、重い病気を持っている人に出会って、不幸と思える状況にいる人を知って、私たちは同じ思いを抱くかもしれません。「私はあの人のようではないことを感謝します」と。
 けれども、イエス様が受け入れて下さるのは「こんな罪人の私をあわれんでください」と言えるへりくだった人です。誰かと比較して「上だ」「下だ」と思うことを乗り越えていきたいと思います。-牧師-

〔2018.05/ほっとひと息・第114号〕

タグ:聖書のお話
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『挫折があったからこそ』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 映画『十戒』を見たことがあるでしょうか。私は何十年も前にこの大作を鑑賞し、その映像が目に焼き付いています。
 『十戒』の主人公モーセは旧約聖書に登場する人物です。彼がヒーロー的に活躍した場面こそ有名なことだと思いますが、彼はその時80歳。神様はこの高齢者のモーセを必要とし、彼もそれに応えました。
 人間誰でも同じだと思いますが、人が誰かの役に立つ有用な器になることは一朝一夕には行かないものです。一粒の種が芽を出し花を咲かせるまでにたくさんの時間が必要なように、美味しい木の実がなるために何年も何年もかかるように…。
 エジプトの王の娘の子として育てられたモーセは40歳の時に決断しました。自分の民族がエジプトで奴隷とされていましたから、その救出のために立ち上がったのです。しかし、それは失敗となりました。
 挫折…。この時のモーセの現実です。立場も地位も約束された未来も捨てたのに、彼が手に入れたものは挫折でした。彼は時を待ちました。80歳の時に有用な神の器として用いられるまでの40年間、彼は土の中で眠る一粒の種のようになりました。
 あの挫折があったからこそ、モーセは偉大なリーダーになったのです。かつて自分を信じ、自分の力で何とかしよう、自分ならできると過信して挫折を経験したからこそ、神様を信じ、神様に自分を委ね、神様に頼って祈りつつ生きることがベストなのだと気づいたのです。
 「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(聖書/箴言16:9)
 挫折をしたからこそ見える世界があるのです。その一つ一つが貴重な経験です。神様がその経験を生かして下さいます。私もそれを実感しているひとりです。-牧師-

〔2018.03/ほっとひと息・第113号〕

タグ:聖書のお話
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『クリスマス、それは愛の証』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 私たちの誰もが思うことかもしれません。自分は愛されているのか、自分には生きる価値があるのか、自分は生きていていいのか…。もし、それが満たされなかったり、それを否定するような出来事があったり、そこに少しでも不安な要素が見つかると、人は生きる力を失うことがあるのです。
 ですからぜひ知ってほしいのです。神様は聖書において、私たち人間に対する惜しみない愛を繰り返し語っているのです。
 「神はそのひとり子を世(私たち)に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(第1ヨハネ4:9)
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(私たち)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
 「永遠の愛をもって、わたし(神様)はあなたを愛した。」(エレミヤ書31:3)
 「わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。わたし(神様)はあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)
 私たちはどのようにして愛する人に愛を示すでしょうか。贈り物や花束、時間やお金や苦労を惜しまない姿によってでしょうか。あるいは、一緒に涙を流したり、共に危機を乗り越えたりという場合もあるかもしれません。
 神様はどれほど私たちを愛して下さっているのでしょうか。それは我が子の命さえも与えるほどの愛であり、自分自身を捧げ尽くすものだと言えるでしょう。
 クリスマス、それはこの神の愛が見える形になった日です。イエス様の誕生は神様から私たちへの愛の証なのです。この愛を受け取る資格のある人は誰でしょうか。それは…、あなたです。 -牧師-

〔2017.12/ほっとひと息・第112号〕

タグ:聖書のお話
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『こんな私でもいいのですか』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 聖書で「罪深い女」と紹介されている人がいます。不道徳な生き方だったようです。
 彼女はイエス様がパリサイ人シモンの家にいることを知ってやってきました。そしてイエス様の足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、足に口づけし、香油を塗ったのです。
 人の行動には理由があるものです。御礼をしたい、役に立ちたい、良く思われたい、償いをしたい…。彼女にはこれをしないではいられない気持ちがあったようです。
 様子を見ていたシモンには理解できない事でした。「この女は罪深い者だ。汚らわしい」と心ひそかに思っていたからです。
 イエス様は彼に一つの話をしました。二人の人が同じ貸主から借金していたとして、返済できないと知った貸主が二人の借金を赦した場合、借金が多額だった者と少額だった者と、どちらが余計に貸主を愛するようになるかと…。答えは前者です。
 この「罪深い女」はイエス様に何をしてもらったのでしょうか。数えきれない過去の罪、恥ずかしい罪、神様を悲しませた罪、それらすべてをイエス様に赦してもらったのです。彼女が自分の罪を悔い改めたからです。だからイエス様の愛に応えたい、それが彼女の行動の理由だったのです。
 時々聞く言葉があります。「自分みたいな者が教会に行っていいのですか?」、「こんな私でもいいのですか?」何かしら自分の罪を意識して出た言葉かもしれません。
 しかし、イエス様は招いておられます。「そんなあなたでいいのです」と。ありのまま、そのままの姿でイエス様の前に立つことができるのです。なぜなら、イエス様は私たちを愛し、私たちの罪を赦し、受け入れて下さる神だからです。
 「イエスは女に言われた。『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。』」(ルカの福音書7:50) -牧師-

〔2017.09/ほっとひと息・第111号〕

タグ:聖書のお話
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『悲しみが喜びに変えられる時』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 一人の女性の話をしたいと思います。聖書に登場するマグダラのマリヤ。彼女には大きな悩みがありました。難しい病気があったからです。ところが、彼女はイエス様と出会い、病気を直してもらうことができたのです。それ以来、彼女はイエス様の弟子となってお供をするようになりました。
 恩に報いたい…、それが彼女の動機だったかもしれません。いや、イエス様こそ救い主だと信じたからこそ、彼女はイエス様に従ったのです。それが彼女の喜びでした。
 しかし、人生とは思うように行かないものです。たった数年でイエス様を失うことになったのですから。気丈にも彼女は十字架につけられているイエス様を目の前で見届けました。そして埋葬にも立ち会いました。イエス様から少しも離れたくなかったのです。それが自分を保つ唯一残された方法だったに違いありません。
 死んで3日目となる日曜日の朝には、彼女はイエス様のお墓に行きました。とにかくイエス様を近くに感じていたいのです。それ程(ほど)、マグダラのマリヤの心に開いた穴は深く大きかったのでしょう。
 ところが、新しい悲しみが彼女を待っていました。墓にイエス様の遺体がなかったのです。彼女は途方に暮れてしまいました。「なぜ泣いているのですか…」と声をかけられましたが、イエス様の遺体を捜している彼女に心が癒される時は来ませんでした。涙ばかりが出て止まりませんでした。
 「マリヤ!」
 聞き覚えのあるこの呼びかけに彼女はすぐに反応しました。イエス様だったのです。イエス様は死からよみがえり生きておられたのです。彼女の悲しみは喜びに変えられ、涙に濡れた顔に笑顔がこぼれました。
 「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。」(聖書)    -牧師-

〔2017.05/ほっとひと息・第1110号〕

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『見えないものを見て生きる』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 さて、角度を変えて物事を見た時に、そこに新しい発見をするということがあります。いつも同じ目線、視点では見えてこないことがあるのだと気づかされます。
 次の聖書の言葉を読んでみてください。
 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(第2コリント4:16-18)
 この聖書の言葉から、普段とは違った視点で物事を見ることの大切さを教えられます。悩み、苦しみ、悲しみ…、それらを角度を変えて見てみたいと思います。
 「外なる人」は肉体、これは年齢と共に衰えていきます。しかし「内なる人」である魂は、神様への信仰、祈り、聖書の言葉により養われ、毎日新しくされるのです。だから勇気を失わず、失望しないのです。
 苦悩や試練は決して歓迎されるものではありませんが、一時的なものであるというのです。やがて天国において永遠の祝福の中に生きることを思ったら軽いものに見えて来るのだと。「今の時の患難」より「永遠の栄光」に目線を移した結果です。
 「見えるもの」は一時的、「見えないもの」はいつまでも続くとありますが、今見えている現実世界から逃げ出したくて言っているのではありません。最も価値あるもの、人生の目標をどこに置いて生きているかを問いかけているのです。
 疲れ、涙し、目の前が暗くなる出来事が続いても、希望を失わない生き方があることを知ってほしいと思います。-牧師-

〔2017.03/ほっとひと息・第109号〕

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『光を見失っている方へ』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 私たちの人生、良い時もあれば悪い時も訪れるものです。ただ、その沈んだ状態が私たちを大きく揺さぶるから厄介です。
 牧師のところにはいろいろな人からの相談が飛び込んでまいります。ある人は何をやってもうまくいかないと苦しい胸の内を話して行かれます。ある人は人を信じて逆に傷つけられてしまったと…。またある人は、出口が見えずに疲れ果て生きる意味さえ見失ってしまったと重い口を開きます。
 光が消えた、光に見放された、自分は暗闇の中に落ち込んでいると感じていらっしゃる方は多いことでしょう。
 聖書には幸いな言葉が記されています。
 「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ書9:2)
 光が注がれるという約束です。神様が私たちを光で照らして下さるのです。
 光を見失うことはあっても、光そのものを失うことはないのだと気づかされます。光は希望です。光には温もりや安心があります。光は心に命を灯すでしょう。
 神様はその光を具体的な形で明らかにして下さいました。それがクリスマスの出来事、救い主イエス様の誕生なのです。すでにこの光は私たちのところに届けられ、誰でもすぐに受け取れるものなのです。
 イエス様は次のように言われました。
 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
 神様から与えられる光に照らされて歩む中に、私たちの歩みは落ち着きを取り戻すでしょう。神様の愛の光の中に生きるなら、苦しい状況があってもそこは決して暗闇ではありません。もう光はどこへも行かず、消えることもないからです。クリスマスはこの光が輝く時です。-牧師-

〔2016.12/ほっとひと息・第108号〕

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『人を作り変える方』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 私は小学生の頃から若白髪が目立っていましたので、それにちなんだニックネームを付けられた経験があります。ニックネームはこのように外見から付けられる場合もありますが、その人の性格をうまく表現して付けられることもあるようです。
 兄弟して漁師を営んでいたヤコブとヨハネは、イエス様を救い主と信じて弟子となりましたが、この二人には「雷の子」というニックネームが付けられました。
 「雷の子」とはどういうことでしょう。すぐに腹を立てるような短気で激しい性格というイメージでしょうか。
 確かにヤコブとヨハネは、気に入らないことに対しては感情を露わにする性格でした。半ば人種差別なことを口にすることさえありました。加えて、人よりも偉くなりたいという野心を持ち、なかなか手強い性格の持ち主だったようです。
 イエス様はそんな彼らに言われました。
 「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:43-45)
 イエス様はその言葉の通りに生きた方でした。ヤコブもヨハネも弟子としてそれをすぐそばで見てきました。二人は自分の自己中心さを悔い改め、イエス様の言葉、その行い、生き方を見て学び、性格も変えられていきました。イエス様は自分の母マリヤのことをヨハネに託すほどに信頼するようになりました。愛のない、愛の薄い二人もイエス様が与えて下さった愛と信仰により愛のある人へと変えられていきました。
 神様が人を作り変えるのです。-牧師-

〔2016.10/ほっとひと息・第107号〕

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『眠れない夜にも・・・』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 眠れない・・・、これは私たちにとってこの上もなく辛い現実です。皆様の中にも経験のある方がいらっしゃることでしょう。
 悩み、思い煩い、不安、哀しみ、挫折、孤独など、それら一つ一つがストレスとなって私たちの心を埋め尽くす時、私たちは余裕がなくなり、苛立ち、眠れないという現実に襲われます。
 聖書に登場するダビデ王は、自分の息子が起こした謀反により都を追われ、命までも狙われる経験をしました。ダビデが選んだ道はただ逃げるというものでした。
 そこにもう一つのストレスが加わります。ある男がダビデに近づいて呪いの言葉を吐きました。「全部おまえの責任だ。神がおまえを責めているのだ。災いにあって当然なのだ」と。
 もし自分の身に同じようなことが起きたら、とても精神的にもたないでしょう。
 そのような状況の中でダビデはむやみに行動しないのですから不思議です。しかもダビデは逃亡中にあっても良い眠りを確保したというのです。その理由は明確でした。神様に対するイメージがダビデの中でゆるぎないものだったからです。
 常に神様の力が自分を取り囲んでいる、お祈りは神様に届いている、現実が厳しくても神様は私を救い出して下さる…。
 だからダビデは次の言葉を残しました。
 「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。…しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光…。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。…救いは主にあります。」(詩篇3篇)
 神様を信頼する者が手にする平安を知っていただけたら幸いです。 -牧師-

〔2016.7/ほっとひと息・第106号〕

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『聖書の言葉の力』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 私自身、大なり小なり、人生のいろいろな局面を経験してきました。しかし、そのような中で助けとなったものがあります。それは聖書の言葉です。
◆「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5:8)
 私は自分の罪深い姿をこれまで何度も感じて来ました。警察のお世話になるところまでは行っていないとは言え、自分の胸に手を当てた時、後ろめたいことが沢山あります。そのような時にこの聖書の言葉に出会い神様の深い愛に触れることができました。こんな心の汚い私も愛され、赦されている。感謝の言葉しかありません。
◆「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1)
この 言葉は、次男に聴覚障害があるとわかった時、また、ムコ多糖症という難病であることが判明した時に響いてきた言葉です。行き場を見失うような心の衝撃を経験する中でも、神様は避難所であり、そこで新しい力を得、事実を冷静に受けとめて前を向くことができました。
◆「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)
 何度も何度もこの聖書の言葉は私を助けてくれました。不安な時、心が乱れる時、この言葉を思い出します。不思議なほど私の心は平安になるのです。これは悩みを抱えた何人もの人に紹介しましたが、私にもずっと必要な聖書の言葉です。 -牧師-

〔2016.5/ほっとひと息・第105号〕

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