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愛されるために生まれたあなたへ・・・。   私たちは、栃木県小山市にあるプロテスタントのキリスト教会です。

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『見えないものを見て生きる』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 さて、角度を変えて物事を見た時に、そこに新しい発見をするということがあります。いつも同じ目線、視点では見えてこないことがあるのだと気づかされます。
 次の聖書の言葉を読んでみてください。
 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(第2コリント4:16-18)
 この聖書の言葉から、普段とは違った視点で物事を見ることの大切さを教えられます。悩み、苦しみ、悲しみ…、それらを角度を変えて見てみたいと思います。
 「外なる人」は肉体、これは年齢と共に衰えていきます。しかし「内なる人」である魂は、神様への信仰、祈り、聖書の言葉により養われ、毎日新しくされるのです。だから勇気を失わず、失望しないのです。
 苦悩や試練は決して歓迎されるものではありませんが、一時的なものであるというのです。やがて天国において永遠の祝福の中に生きることを思ったら軽いものに見えて来るのだと。「今の時の患難」より「永遠の栄光」に目線を移した結果です。
 「見えるもの」は一時的、「見えないもの」はいつまでも続くとありますが、今見えている現実世界から逃げ出したくて言っているのではありません。最も価値あるもの、人生の目標をどこに置いて生きているかを問いかけているのです。
 疲れ、涙し、目の前が暗くなる出来事が続いても、希望を失わない生き方があることを知ってほしいと思います。-牧師-

〔2017.03/ほっとひと息・第109号〕

タグ:聖書のお話
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『光を見失っている方へ』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 私たちの人生、良い時もあれば悪い時も訪れるものです。ただ、その沈んだ状態が私たちを大きく揺さぶるから厄介です。
 牧師のところにはいろいろな人からの相談が飛び込んでまいります。ある人は何をやってもうまくいかないと苦しい胸の内を話して行かれます。ある人は人を信じて逆に傷つけられてしまったと…。またある人は、出口が見えずに疲れ果て生きる意味さえ見失ってしまったと重い口を開きます。
 光が消えた、光に見放された、自分は暗闇の中に落ち込んでいると感じていらっしゃる方は多いことでしょう。
 聖書には幸いな言葉が記されています。
 「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ書9:2)
 光が注がれるという約束です。神様が私たちを光で照らして下さるのです。
 光を見失うことはあっても、光そのものを失うことはないのだと気づかされます。光は希望です。光には温もりや安心があります。光は心に命を灯すでしょう。
 神様はその光を具体的な形で明らかにして下さいました。それがクリスマスの出来事、救い主イエス様の誕生なのです。すでにこの光は私たちのところに届けられ、誰でもすぐに受け取れるものなのです。
 イエス様は次のように言われました。
 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
 神様から与えられる光に照らされて歩む中に、私たちの歩みは落ち着きを取り戻すでしょう。神様の愛の光の中に生きるなら、苦しい状況があってもそこは決して暗闇ではありません。もう光はどこへも行かず、消えることもないからです。クリスマスはこの光が輝く時です。-牧師-

〔2016.12/ほっとひと息・第108号〕

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『人を作り変える方』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 私は小学生の頃から若白髪が目立っていましたので、それにちなんだニックネームを付けられた経験があります。ニックネームはこのように外見から付けられる場合もありますが、その人の性格をうまく表現して付けられることもあるようです。
 兄弟して漁師を営んでいたヤコブとヨハネは、イエス様を救い主と信じて弟子となりましたが、この二人には「雷の子」というニックネームが付けられました。
 「雷の子」とはどういうことでしょう。すぐに腹を立てるような短気で激しい性格というイメージでしょうか。
 確かにヤコブとヨハネは、気に入らないことに対しては感情を露わにする性格でした。半ば人種差別なことを口にすることさえありました。加えて、人よりも偉くなりたいという野心を持ち、なかなか手強い性格の持ち主だったようです。
 イエス様はそんな彼らに言われました。
 「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:43-45)
 イエス様はその言葉の通りに生きた方でした。ヤコブもヨハネも弟子としてそれをすぐそばで見てきました。二人は自分の自己中心さを悔い改め、イエス様の言葉、その行い、生き方を見て学び、性格も変えられていきました。イエス様は自分の母マリヤのことをヨハネに託すほどに信頼するようになりました。愛のない、愛の薄い二人もイエス様が与えて下さった愛と信仰により愛のある人へと変えられていきました。
 神様が人を作り変えるのです。-牧師-

〔2016.10/ほっとひと息・第107号〕

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『眠れない夜にも・・・』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 眠れない・・・、これは私たちにとってこの上もなく辛い現実です。皆様の中にも経験のある方がいらっしゃることでしょう。
 悩み、思い煩い、不安、哀しみ、挫折、孤独など、それら一つ一つがストレスとなって私たちの心を埋め尽くす時、私たちは余裕がなくなり、苛立ち、眠れないという現実に襲われます。
 聖書に登場するダビデ王は、自分の息子が起こした謀反により都を追われ、命までも狙われる経験をしました。ダビデが選んだ道はただ逃げるというものでした。
 そこにもう一つのストレスが加わります。ある男がダビデに近づいて呪いの言葉を吐きました。「全部おまえの責任だ。神がおまえを責めているのだ。災いにあって当然なのだ」と。
 もし自分の身に同じようなことが起きたら、とても精神的にもたないでしょう。
 そのような状況の中でダビデはむやみに行動しないのですから不思議です。しかもダビデは逃亡中にあっても良い眠りを確保したというのです。その理由は明確でした。神様に対するイメージがダビデの中でゆるぎないものだったからです。
 常に神様の力が自分を取り囲んでいる、お祈りは神様に届いている、現実が厳しくても神様は私を救い出して下さる…。
 だからダビデは次の言葉を残しました。
 「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。…しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光…。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。…救いは主にあります。」(詩篇3篇)
 神様を信頼する者が手にする平安を知っていただけたら幸いです。 -牧師-

〔2016.7/ほっとひと息・第106号〕

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『聖書の言葉の力』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 私自身、大なり小なり、人生のいろいろな局面を経験してきました。しかし、そのような中で助けとなったものがあります。それは聖書の言葉です。
◆「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5:8)
 私は自分の罪深い姿をこれまで何度も感じて来ました。警察のお世話になるところまでは行っていないとは言え、自分の胸に手を当てた時、後ろめたいことが沢山あります。そのような時にこの聖書の言葉に出会い神様の深い愛に触れることができました。こんな心の汚い私も愛され、赦されている。感謝の言葉しかありません。
◆「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1)
この 言葉は、次男に聴覚障害があるとわかった時、また、ムコ多糖症という難病であることが判明した時に響いてきた言葉です。行き場を見失うような心の衝撃を経験する中でも、神様は避難所であり、そこで新しい力を得、事実を冷静に受けとめて前を向くことができました。
◆「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)
 何度も何度もこの聖書の言葉は私を助けてくれました。不安な時、心が乱れる時、この言葉を思い出します。不思議なほど私の心は平安になるのです。これは悩みを抱えた何人もの人に紹介しましたが、私にもずっと必要な聖書の言葉です。 -牧師-

〔2016.5/ほっとひと息・第105号〕

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『祈りは聞かれている」 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 私たちは自分の心の思いをどのように表現するでしょうか。それは通常、言葉によってです。喜びを表情とともに言葉にし、尖った言い方で怒っていることがあらわになり、言葉は少なくとも哀しみを口にし、楽しい時にはついついしゃべり過ぎてしまうものです。
 私たちは話しがしたいのです。そして聞いてくれる人の存在あればこそ、安心して話すのです。これは私たちの日常です。
 聖書には神様に向かって話すことについて教えられています。それは「祈り」です。聖書は次のように語っています。
 「主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。」(聖書/詩篇6:9)
 「・・・あなたのことばは聞かれているからだ。」(聖書/ダニエル書10:12)
 「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」(聖書/第2列王記20:5)
 神様は聞いて下さるお方です。そうであるならば、祈るということは話すことになるでしょう。まさに神様との会話です。祈りは独り言では決してありません。
 たっぷり時間をとって祈りますが、瞬間的に短く祈ることもあります。寝床で祈り、トイレで祈り、歩きながら、運転しながら、実に様々な時に私は祈っています。
 私たちは人と話すことで自分の存在を確認したり、気持ちを整理したりします。時には、話すことそのものがストレス解消になるでしょう。これが毎日繰り返されています。同じように神様との会話である祈りは、私たち人間にとってなくてはならない日常的な活動なのです。そしてとても幸せな時間です。
 心の思いを神様に向かって言葉にするのです。祈りはそのようにして始まります。神様は「わたしはあなたの祈りを聞いた。」と言って下さいます。 -牧師-

〔2016.3/ほっとひと息・第104号〕

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2016年 新年メッセージ [バイブル・メッセージ]

『心静かに生きるも』


<新年メッセージの概要>
聖書と十字架.jpg


<聖書の言葉> 詩篇 37:1-6/旧約聖書
37:3 主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。

2016年1月1日、新年のごあいさつを申し上げます。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 私たちには心を乱す時があるものです。人から不当な扱いを受けた時、社会の冷たい対応に接し、また不安な出来事が次々と起こる時、私たちの心は揺れてしまいます。詩篇の作者は悪者が栄える姿を見て心は穏やかでいられなかったようです。
 しかし詩篇の作者は言いました。「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」(7節)と。どのようにしたら実現できるのでしょう。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(5節)。ここに秘訣があるのです。信仰の目を持って耐え忍び、主の恵みと真実を信頼して神を待ち望むのです。ここに心静かに生きられる道があります。
 私たちは周りを見てあれやこれやと感情が揺れ動き、人を羨み人を裁く…、そこに私たちが目標とする歩みはありません。「主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。」(3節)の中に目指すべき生き方を見出します。周りはともかく自分は善を行い、今置かれている所で誠実を貫きたいと思います。それは日々の食べ物のようにして意識して続けるべき信仰の歩みです。神への信頼がそれを支えます。

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『私たちの胸に響く出来事』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 昨年、次男が19歳で亡くなりました。葬儀に沢山の方々が参列して下さいましたが、駆けつけてくれた方々の顔を見ただけでも胸が熱くなりました。参列できなくてもいろいろな方々から優しい心が届きました。このような目に見える行動は心に刻まれるものだと改めて実感しました。
 東日本大震災の被災者にとって忘れられることがとても辛いことだと聞きます。しかし、今もなお被災地を訪れ仮設住宅に住む方々に寄り添う活動が小規模ながらも続けられていることを知っています。そこには信頼関係が生まれているようです。
 誰かのことを思って駆けつける、そばに行って寄り添う、時間を割いて共にひと時を過ごす、そのような行動は私たちの胸に響くものです。
 神様はまさにそれをクリスマスにおいて表して下さいました。
 神様の存在は一般的には遠くに感じるものかもしれません。聖書は語っています。
 「ことば(神様)は人となって、私たちの間に住まわれた。」(聖書/ヨハネの福音書1:14)
 クリスマス、救い主イエス様の誕生は、神様が私たちの住むこの地に生まれた出来事なのです。神様は遠くから私たちを見守るのではなく私たちの間に住み、私たちの悩み、苦しみ、弱さを肌で感じられたのです。希望を見失った者に希望を語り、自分の罪と向き合う者に罪の赦しをもたらし、孤独の中にいる者に寄り添い、社会からはじかれた者の友となりました。
 イエス様がこの地に来られた時、人々は神の愛を見ることができました。私たち罪人を愛しているという神の愛の言葉が、イエス様の歩みを通して目の前で実感することができたのです。
 今年、皆様がこのイエス様をより身近に感じて下さるなら幸いです。

〔2015.12/ほっとひと息・第103号〕

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『敵意を乗り越えよう』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 スポーツの世界で耳にする「ライバル」。お互いに切磋琢磨し、尊敬し合う存在です。敵とは言え、競技が終わればお互いの健闘を称え合える麗しいつながりがあります。
 しかし、もし本当に「敵」とみなしたとしたら、この関係はどうなるでしょう。
 聖書には双子の兄エサウが弟ヤコブを憎むという話が出てきます。一つのものを二人で奪い合った結果、兄は弟を敵とみなし、命を奪おうとしたのです。また、初代の王様サウルが、次の王様に定められたダビデの存在を知った時、激しい妬みを抱き、ダビデを抹殺するために全精力を傾ける話も記録されています。「敵」とは排除したい相手であることがわかります。
 あるいは、外見、育ち、知性、経済状態、人種などに対する自己中心的な理由から、人が人に対して抱く悪い感情が敵意を生むこともあるように思います。
 敵意は人と人との間で溝となり、壁を作ります。放置すれば溝はさらに深まり、壁はそそり立つでしょう。しかし、その溝を埋め、壁を壊すことができたら、そこには平和が訪れるのではないでしょうか。
 イエス様は自分の敵を愛するよう教えました。自ら十字架の上でその愛を実践し、誰をも敵と思わず、惜しむことなく愛を示されました。この教えは引き継がれ、教会は次の言葉を人々に語りました。
 「・・・すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(聖書/ローマ人への手紙 12:17~18)
 敵意を乗り越え、平和を保つよう互いに努力しようではありませんか。夫婦の間で、親子関係で、身近な人間関係の中で取り組みましょう。平和な世界の範囲を世界大に広げ、力によってではなく、愛によって平和をつくる者となりましょう。

〔2015.9/ほっとひと息・第102号〕

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『与えるほうが幸いって?』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 私はクリスチャンとして長く生きておりますが、聖書の言葉には何度も何度も慰められ、力をいただいてきました。心動かされた聖書の言葉を大切にしたいと思って、目につくところに書いて張ったりしたこともあります。
 時には、ドキッとさせられる聖書の言葉に出合ううこともあります。イエス様が言われた次の言葉を思い出します。
 「受けるよりも与えるほうが幸いである」(聖書/使徒の働き20:35)
 若い頃にこの言葉を聞き、自分とあまりにもかけ離れていることに衝撃を覚えました。「与える」ということを意識することはほとんどありませんでしたから…。
 与えるって何だろう? 何を与えればいいんだろう? 与えることがどうして幸せなんだろう? 問いかけばかりが浮かびました。でも、イエス様のご生涯を振り返ってみた時、与えることそのもののご生涯であったと気づきました。
 若い頃に通っていた教会で、ある時、生活苦でありながらも熱心に礼拝に来られていた方がありました。教会の奉仕にも関わって下さり、私はとても親(した)しくしておりました。具体的な生活支援をしたことがありましたが、ある日、その方は教会から消えました。お金が目的の人だったようです。
 少しでも「与える」ことを心がけた結果、痛みを味わいました。裏切られた思いをしばらく引きずりました。しかし、与えることは、やがて自分の利益となって返ってくるようなものではないことを学びました。
 イエス様はご自身のすべてを、その命さえも惜しまずに与えて下さったお方です。それは私たちが幸せに生きるためです。人の幸せのために自分自身を与える、ここに真の愛があるのです。私はこの愛により幸いを頂きました。

〔2015.6/ほっとひと息・第101号〕

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