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愛されるために生まれたあなたへ・・・。   私たちは、栃木県小山市にあるプロテスタントのキリスト教会です。

『穏やかに、そして静かに…』(近所のおばあちゃん:その3) [エッセイ/共に喜び、共に泣いて]

◆ 私が出会った人たち ◆ <連載 9>

 
 思いもよらない出来事だった。泥棒呼ばわりされてしまったのだから…。亀裂が入ったような状態になったが、結局、おばあちゃんとの関わりは続いた。次第に状況を理解してくれたので、私との信頼関係は回復していった。
 退院して自宅に戻れたものの、心臓が安心できる状態になることはなかった。市役所の福祉の方と連携しながら見守った。
 しばらくして特別養護老人ホームへの入所の道が開かれた。穏やかに暮らせる環境が保障され、本当にほっとした。
 礼拝への出席は、教会のメンバーが送迎することで実現した。日曜日を楽しみにして過ごし、やがて洗礼を受けた。その日は本当に嬉しそうだった。
 「思い上がりじゃないわよね?」
 おばあちゃんはよく口にした。イエス様は自分を愛してくれるのか、天国に連れて行ってくれるのか、時々心配になったのだ。
 聖書の御言葉を時々教えてあげた。
 「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)
不安がなくなり、とても嬉しそうだった。私はおばあちゃんに言った。
 「思い上がりなんかじゃないよ!」と。
 イエス様のいる天国に行くことが楽しみであり、目標でもあった。おばあちゃんの生き甲斐だったのかもしれない。
 ・・・ その日は静かに訪れた。
 おばあちゃんの地上での生涯は81年で閉じられた。そして、生前最も楽しみにしていたイエス様のもとへと召されて行った。身寄りのない方だったが、葬儀は教会で行った。遺骨は教会の墓地に納めた。私たちは年に一度、記念礼拝を行ない、先に亡くなった方々を偲んでいる。

〔2017.03/ほっとひと息・第109号〕

タグ:エッセイ

『急がば回れ』 [コラム Column こらむ!]

 他人のことをとやかく言えない身であることを承知した上でのことですが、私たちは「楽」をしたいと思っているでしょう。苦しいより楽しい、遅いより早い、遠いより近い、長いより短い、面倒くさいことより簡単を選びたいのです。
 実際、心の中で「ああ面倒くさい」と連発してしまう自分に気づきます。時間のかかる道を選ばず、少しでも早く着く道を選ぼうとしています。ネットショッピングをしながら「楽だなあ」とつぶやいています。
 ただ、弊害が出てきているような気がしてなりません。そして「急がば回れ」ということわざが胸に響いてきます。「楽」をしても良いことは多々ありますが、「面倒」を選ぶべきこともあるだろうと思います。
 スマホで子育て支援ができると話題になりました。「楽」になるでしょうが、幼い子どもが親の顔や目を正面から見なくなる、親の言葉を聞く機会が少なくなるでしょう。子育てに面倒はつきもの、時間のかかるもの、でも苦労のしがいがあるものです。
 タブレットを小学生に持たせて授業をする話に戸惑いました。先生の表情より端末の画面、字を書いたり消したりの苦労をしないでタッチパネルでの操作。「楽」だし「楽しそう」です。面倒くさい勉強が楽になるでしょうが、10年後20年後に実験結果が明らかになるでしょう。
 ほんの一例ですが、「面倒」でもそれを選択した方が良い分野を残したい…。「若い時の苦労は買ってでもせよ」の気持ちです。

〔2017.03/ほっとひと息・第109号〕

タグ:オピニオン

『見えないものを見て生きる』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 さて、角度を変えて物事を見た時に、そこに新しい発見をするということがあります。いつも同じ目線、視点では見えてこないことがあるのだと気づかされます。
 次の聖書の言葉を読んでみてください。
 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(第2コリント4:16-18)
 この聖書の言葉から、普段とは違った視点で物事を見ることの大切さを教えられます。悩み、苦しみ、悲しみ…、それらを角度を変えて見てみたいと思います。
 「外なる人」は肉体、これは年齢と共に衰えていきます。しかし「内なる人」である魂は、神様への信仰、祈り、聖書の言葉により養われ、毎日新しくされるのです。だから勇気を失わず、失望しないのです。
 苦悩や試練は決して歓迎されるものではありませんが、一時的なものであるというのです。やがて天国において永遠の祝福の中に生きることを思ったら軽いものに見えて来るのだと。「今の時の患難」より「永遠の栄光」に目線を移した結果です。
 「見えるもの」は一時的、「見えないもの」はいつまでも続くとありますが、今見えている現実世界から逃げ出したくて言っているのではありません。最も価値あるもの、人生の目標をどこに置いて生きているかを問いかけているのです。
 疲れ、涙し、目の前が暗くなる出来事が続いても、希望を失わない生き方があることを知ってほしいと思います。-牧師-

〔2017.03/ほっとひと息・第109号〕

タグ:聖書のお話

無になって [祈りの言葉]

私たちの天の父なる神様。
あなたは無から世界を創造されました。
だから私たちは無になることを恐れてはいけないと思うのです。
自分は何か持っている、何かしているとか、自分が先立っている間は、それは無ではないでしょう。
神様、あなただけしかない、あなたのほかには何もないという思い、信仰を持てた時にはじめて、あなたはみわざをなさいます。
自分が無となり、あなたのほかに何も持たない人において、自分の思いや考えでなくて、あなたのみことば、みこころが先に立つ歩みができるのでしょう。
私をそのような人へと成長させてください。
そして、あなたの豊かなみわざを見る者としてくださいますように。
イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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タグ:祈り

『どこまで関われるか』(近所のおばあちゃん:その2) [エッセイ/共に喜び、共に泣いて]

◆ 私が出会った人たち ◆ <連載 8>


 教会の近くでのおばあちゃんとの小さな出会い。これを機会におばあちゃんは礼拝に来てくれるようになった。ただ、一人暮らしで、心臓に病気もあり、地面を擦るようにして歩く姿を見ていると、いつどこで転ぶかわからない。心配になってきた。
 日曜日に教会で会う以外にも時々訪問するようになった。そしていつの間にか買い物を手伝うようになった。食料品などに加えて鳥の餌も必需品だったから…。また、通院に付き合うこともあった。
 何度も何度も自動車を出してサポートしてきたが、いよいよ心臓の病気のために入院する事態になってしまった。やはり一人暮らしはもう無理かと感じた。
 仕方のないことだったが、おばあちゃんの通帳を預ることになり、お金の管理を引き受けた。唯一人と言ってもよい親戚の方と連絡は取れたが、全部こちらに任せると。もちろんお金の管理の仕方も含めて…。
 お見舞いに行った時、思いがけないことが起きた。おばあちゃんから「私の通帳、見せて!」と言われたのだ。そしておばあちゃんから「泥棒!」と叫ばれてしまった。
 実は、ATMが使えない通帳だったので、親戚の承諾を得て、私名義の口座を開設して管理を始めた矢先だったのだ。
 まさかこんなことが…。理由も何も一切聞く耳なし。全てを元に戻した通帳を見せるしか方法がなかった。長い付き合いのおばあちゃんとの間に生じた亀裂…。落ち込んだ。ただ、同じ病室の方から同情の声をいただけたのが唯一の救いだった。
 どこまで関われるのだろう…、そんな難しさを経験した。しかし、放っておくわけにはいかない。何を言われてもこの関わりが終わることはなかった。    

〔2016.12/ほっとひと息・第108号〕

タグ:エッセイ

『自分の言葉は大丈夫か』 [コラム Column こらむ!]

 最近、自分に問いかけたことがあります。果たして「自分の言葉は大丈夫か…」と。
 米国の大統領選挙で一人の候補者は、敵を作っては攻撃し、聴衆もそれに同調していきました。「自分たちが日頃思っていたことを代わりに言ってくれた」からだと…。
 もし遠慮のない発言を言われる側だったら、同じ言葉で反論するかもしれません。
 沖縄でヘリパッド建設に反対する住民と機動隊が衝突する中、機動隊員から差別発言が飛び出しました。戦時中も戦後も集中的に苦しめられてきた沖縄の歴史を思ったら、あの見下した発言は許されません。
 しかし、沖縄の方々があの発言に苛立っている程に、いわゆる本土にいる私はあの発言を問題視していただろうか…。
 インターネット上で飛び交う言葉は時に辛辣です。攻撃対象が見つかると我先にと厳しい言葉が書き込まれていきます。その言葉はだいたい感情的で、威圧的でもあります。匿名的な世界だからかもしれませんが、制御が働かないように見えます。
 我慢ならないと思うニュースを知った時、テレビの前で、新聞を開く手をそのままに暴言のような言葉を小声で吐く自分がいます。誰も聞いていないという前提で…。
 その時に思い起こした言葉があります。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)私の口にも見張りが必要だと気づかされます。

〔2016.12/ほっとひと息・第108号〕

タグ:オピニオン

『光を見失っている方へ』 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 私たちの人生、良い時もあれば悪い時も訪れるものです。ただ、その沈んだ状態が私たちを大きく揺さぶるから厄介です。
 牧師のところにはいろいろな人からの相談が飛び込んでまいります。ある人は何をやってもうまくいかないと苦しい胸の内を話して行かれます。ある人は人を信じて逆に傷つけられてしまったと…。またある人は、出口が見えずに疲れ果て生きる意味さえ見失ってしまったと重い口を開きます。
 光が消えた、光に見放された、自分は暗闇の中に落ち込んでいると感じていらっしゃる方は多いことでしょう。
 聖書には幸いな言葉が記されています。
 「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ書9:2)
 光が注がれるという約束です。神様が私たちを光で照らして下さるのです。
 光を見失うことはあっても、光そのものを失うことはないのだと気づかされます。光は希望です。光には温もりや安心があります。光は心に命を灯すでしょう。
 神様はその光を具体的な形で明らかにして下さいました。それがクリスマスの出来事、救い主イエス様の誕生なのです。すでにこの光は私たちのところに届けられ、誰でもすぐに受け取れるものなのです。
 イエス様は次のように言われました。
 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
 神様から与えられる光に照らされて歩む中に、私たちの歩みは落ち着きを取り戻すでしょう。神様の愛の光の中に生きるなら、苦しい状況があってもそこは決して暗闇ではありません。もう光はどこへも行かず、消えることもないからです。クリスマスはこの光が輝く時です。-牧師-

〔2016.12/ほっとひと息・第108号〕

タグ:聖書のお話