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愛されるために生まれたあなたへ・・・。   私たちは、栃木県小山市にあるプロテスタントのキリスト教会です。

2016年 3月 27日(日) [今週の礼拝(恵みの扉)]

『よみがえられた』 ※キリストの復活祭(イースター礼拝)


<礼拝メッセージの概要>
聖書と十字架.jpg


<聖書の言葉> マタイの福音書 27:62~28:15/新約聖書
ローマ人への手紙 10:9/新約聖書
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

 イースターの喜びが皆様の上にありますように。
 イエス様は十字架にかけられ、私たちが負うべき罰を身代わりに引き受けて死なれ、救いの道を開いて下さいました。
 イエス様を十字架にかけることで計画を成功させた指導者たちに安心などなかったようです。「3日目によみがえった」などと言わせないようイエス様の墓を見張ることまでさせたのです。
 しかし、十字架の死から3日目となる日曜日の朝、墓の見張りの番兵も空しく、イエス様はよみがえられました。イエス様の復活を人が妨げることなどできないのです。弟子たちは復活されたイエス様とお会いし喜びに満たされました。イエス様は今、生きておられるのです。
 神様は私たちを信仰へと招いておられます。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」と。このイエス様の復活は私たちが罪から救われ新しく生きるために必要な道なのです。

☆★☆ 次週 2016年 4月 3日(日)の予定 ☆★☆
  『いのちのことば』 
  <聖書の言葉> ヨハネの手紙第一 1:1-4/新約聖書
タグ:聖書のお話
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良き牧者である方を見ながら [祈りの言葉]

私たちの父なる神様。
私たちはこの世の目に見えるものや様々なものが自分の人生を左右するものであるように思い違いをします。
しかし、本当の命に至る道、その入口である門はただ一つ、人生の導き手はただお一人、イエス様だけです。
イエス様は、死の陰の谷を歩むような私たちと共に歩み、「わたしは門です。」「わたしは、良い牧者です。」と語ってくださいます。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」
私たちはこのイエス様の命に生きる者とされていますから、どんな試練や困難もおそれません。
今日も、これから先も、信仰の導き手であり完成者であるイエス様から目を離さず、歩むことができますように。
良き牧者であるイエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
祈り.jpg

タグ:祈り
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2016年 3月 20日(日) [今週の礼拝(恵みの扉)]

『ゴルゴタにおいて』


<礼拝メッセージの概要>
聖書と十字架.jpg


<聖書の言葉> マタイの福音書 27:33-54/新約聖書
ローマ人への手紙 5:8/新約聖書
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 私たちが日常的に人の死に関わることはないでしょう。目の前で死を見るとしたら大変な経験です。
 ゴルゴタ(「どくろ」)はイエス様が十字架にかけられた場所です。人々はついにイエス様をそこに連れて行ったと満足していたかもしれません。ゴルゴタは死の場所です。イエス様はそこで死なれましたが、本当は私たちの罪がそこで死んだのです。私たちの罪がさばかれたのです。
 イエス様の十字架の死は私たちのためです。私たちが負うべき罰を身代わりとなって引き受けられました。私たちが滅びることを望まず、ただ救われることを願った神様の愛が十字架に表わされています。ゴルゴタは愛の場所です。世界中を探してもこの愛を超える愛はありません。
 イエス様が死なれた時、そばにいて全てを目撃していた百人隊長はイエス様への信仰に至りました。ゴルゴタはイエス様と出会える場所であり、罪深い人間にとってそこは光の場所です。
 全ての人がこのゴルゴタのイエス様を見上げてほしいと祈ります。

☆★☆ 次週 2016年 3月 27日(日)の予定 ☆★☆
  『よみがえられた』 ※キリストの復活祭(イースター礼拝)
  <聖書の言葉> マタイの福音書 27:62~28:15/新約聖書
タグ:聖書のお話
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『出会うまでの道のり』 [エッセイ/共に喜び、共に泣いて]

◆ 私が出会った人たち ◆ <連載 4>


 それは何気ない会話から始まった。
 教会のあるメンバーが3交代で看護師の仕事をしていた。現場に出てまだ数年。自分の未熟さに悩んだり落ち込んだり・・・。でも、教会で礼拝をし、聖書を学び、牧師に自分の気持ちを話してお祈りしてもらうことの一つ一つが、彼女が自分を取り戻すための大切な時間となっていた。
 その日はなぜか自分のことではなく患者さんの話をしてくれた。いつもお祈りしながら患者さんと向き合っている彼女は、その患者さんのために特別に心を砕いてお祈りしていたようだった。
 重い病気、末期の状態・・・、しかもまだ30代の患者さん。「クリスチャンとして何かできないか・・・」と。それはまるで自分の家族を思いやるような話に聞こえた。
 「もし、私が会うことができるなら、ぜひお会いしたい。何を話せるかわからないが、患者さんのお役に立ちたい・・・。」
 この提案は簡単なことではなかった。見ず知らずの者が気軽に病室を訪ねることなどできないし、「人の弱みに付け込むのか!」と誤解され罵倒されるかもしれない。
 慎重に進めなければならないことは言うまでもなかった。彼女には2つのことをお願いした。その患者さんが牧師に会ってもいいと言ってくれるかどうかの意思を確認すること、そしてその病棟の師長さんがこのような面会を許可してくれるかどうかの了解を得ること。
 私たちはただただお祈りした。この道が開かれるように・・・、そしてその患者さんの心に神様の愛が届けられるように・・・。
 彼女から報告が来た。患者さんからは「ぜひ会いたい」と。師長さんからの了解も得てきてくれた。道は開かれたのだ。 つづく

〔2016.3/ほっとひと息・第104号〕

タグ:エッセイ
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『葬儀で得るもの』 [コラム Column こらむ!]

 葬儀に参列した時、私は幸いを思うことがあります。もちろん、悲しみの場に居合わせるのですから、幸いだなどど言ったら不謹慎なことですが、そこでなければ得られないものがあるからです。
 聖書には次のような言葉があります。
 「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」
 人の葬りに関わる時、そのまま自分の死を考えることとなるのです。絶対に他人事にはなり得ない自分の死について思い巡らすことは、やがて大きな意味を持つことになると思うからです。自分はその日を迎えるための備えは出来ているのか、と。
 この数年、何度も葬儀に参列していますが、遺族の方々を思い、いつも涙します。親しい者との別れは、残された者には大きな穴が開いたに等しい出来事ですから。
 そのような中で、私は自分の家族や自分自身の死をも思い巡らしています。いつ来るのか、どのように来るのか、ずっと先のことだなどと言えるのか・・・。
 キリスト教葬儀では、賛美歌を歌い、お祈りも捧げますが、遺族の方々をはじめ全ての参列者に向けて聖書からのメッセージが語られます。亡くなられた方の歩みを振り返って偲び、その悼みを共有するのですが、聖書が約束している希望に耳を傾ける時となります。ここに慰めがあり、心のいやしがあり、幸いがあります。

〔2016.3/ほっとひと息・第104号〕

タグ:オピニオン
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『祈りは聞かれている」 [バイブル・メッセージ]

 皆様、お変わりありませんか。
 私たちは自分の心の思いをどのように表現するでしょうか。それは通常、言葉によってです。喜びを表情とともに言葉にし、尖った言い方で怒っていることがあらわになり、言葉は少なくとも哀しみを口にし、楽しい時にはついついしゃべり過ぎてしまうものです。
 私たちは話しがしたいのです。そして聞いてくれる人の存在あればこそ、安心して話すのです。これは私たちの日常です。
 聖書には神様に向かって話すことについて教えられています。それは「祈り」です。聖書は次のように語っています。
 「主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。」(聖書/詩篇6:9)
 「・・・あなたのことばは聞かれているからだ。」(聖書/ダニエル書10:12)
 「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」(聖書/第2列王記20:5)
 神様は聞いて下さるお方です。そうであるならば、祈るということは話すことになるでしょう。まさに神様との会話です。祈りは独り言では決してありません。
 たっぷり時間をとって祈りますが、瞬間的に短く祈ることもあります。寝床で祈り、トイレで祈り、歩きながら、運転しながら、実に様々な時に私は祈っています。
 私たちは人と話すことで自分の存在を確認したり、気持ちを整理したりします。時には、話すことそのものがストレス解消になるでしょう。これが毎日繰り返されています。同じように神様との会話である祈りは、私たち人間にとってなくてはならない日常的な活動なのです。そしてとても幸せな時間です。
 心の思いを神様に向かって言葉にするのです。祈りはそのようにして始まります。神様は「わたしはあなたの祈りを聞いた。」と言って下さいます。 -牧師-

〔2016.3/ほっとひと息・第104号〕

タグ:聖書のお話
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しかし・・・ [祈りの言葉]

私たちの父なる神様。
私たちは知っています。
「草はしおれ、花は散る。」ということを。
また、私たちは知っています。
「世にあっては患難があります。」ということを。
「しかし」、と聖書は続けます。
「草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」と。
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と。
私たちは確かに限りある存在で、厳しい世の中に生きていますけれど、「しかし」、この世の現実の先にある、現実を超えた神様のご支配の中に生きる者であることを心から感謝いたします。
神様、今日も明日もいつまでも、あなたのご支配の中に生かしてくださいますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
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タグ:祈り
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2016年 3月 13日(日) [今週の礼拝(恵みの扉)]

『それでも黙っておられた』


<礼拝メッセージの概要>
聖書と十字架.jpg


<聖書の言葉> マタイの福音書 26:57-68/新約聖書
ペテロの手紙第一 2:22-23/新約聖書
 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

 十字架刑が迫ってきました。逮捕されたイエス様はいよいよ裁判にかけられることになったのです。
 罪のない者が罪ある者とされたなら、必死に無実を訴えるに違いありません。身に覚えのない証拠の嘘を指摘するでしょう。しかし「イエスは黙っておられた」というのです。指導者たちは焦り始めました。その沈黙がかえって人々の愚かさを引き出したと言えるのかもしれません。
 イエス様が数少ないながらも口を開いた場面があります。それは「あなたは神の子キリストなのか」という問いかけに対してでした。身を守るためであるならイエス様は黙っていましたが、真実を話すためだったら口を開かれたのです。その答えが導く結果をわかった上での言葉でした。
 ゲツセマネの園での祈りを通して神様の御心に従うことを選び取ったイエス様は、すべてを神様の御心にゆだねておられたのです。それはそのまま十字架へと進んで行く道でした。イエス様は罪人である私たちを救うために来られたのです。黙々とその道に向かわれたのです。

☆★☆ 次週 2016年 3月 20日(日)の予定 ☆★☆
  『ゴルゴタにおいて』  ※キリストの受難週/ファミリー礼拝
  <聖書の言葉> マタイの福音書 27:33-54/新約聖書
タグ:聖書のお話
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心の静けさを求めて [祈りの言葉]

私たちの父なる神様。
現代の私たちを取り囲むものの一つに「情報」があり、それがあふれています。
時にそれは不気味な怪物のようであり、乱れ飛んでいます。
また、私たち人間が言葉を口にする時、「しみじみと言う」ことを忘れて、我意を通すだけの道具になってしまったと感じることがあります。
言葉が暴力のように相手を傷つけ横行するとき、もう一度、改めて「静かにささやく声」を聞きたいと切に願います。
そのためにも、真の言葉を聞き取ることのできる内なる沈黙と「心の静けさ」を与えられたらと願っています。
神様、あなたが今日、そのような沈黙と心の静けさへと私たちを導いてくださいますように…。
そこから、本当に語るべき言葉を語る者とならせてくださいますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
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タグ:祈り
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2016年 3月 6日(日) [今週の礼拝(恵みの扉)]

『イエス様が愛したように』


<礼拝メッセージの概要>
聖書と十字架.jpg


<聖書の言葉> ヨハネの福音書 13:21-35/新約聖書
34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 十字架を目前にしたイエス様は、「その愛を残るところなく示された」とあり、驚かされます。
 イエス様は弟子たちの足を丁寧に洗い、愛することの模範を示されました。その中に一人、まもなくイエス様を裏切ろうとしている弟子のユダがいました。イエス様は彼を区別することなく愛を尽くしました。彼がその愛で考えを変えてくれることを期待していたかもしれません。
 弟子のユダの心は変わりませんでした。イエス様の深い愛に触れてもイエス様を裏切ることを止めなかったのです。彼はイエス様が逮捕される時の手引きをした人物です。しかしイエス様は、食事の時にもパンを分け与えています。ユダの悔い改めを待つ姿を見出します。
 イエス様は大切な戒めを語りました。それは互いに愛し合うようにということです。その基準は「イエス様があなたがたを愛したように」です。自分を裏切る者に対する愛、自分の敵をも愛する愛、その愛の深さ広さは計り知れません。私たちはこの言葉を日々、思い起こすべきです。

☆★☆ 次週 2016年 3月 13日(日)の予定 ☆★☆
  『それでも黙っておられた』
  <聖書の言葉> マタイの福音書 26:57-68/新約聖書
タグ:聖書のお話
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